@article{oai:iwate-u.repo.nii.ac.jp:00010486, author = {箱石, 匡行}, journal = {岩手大学文化論叢, The report of social studies, the Faculty of Education, Iwate University}, month = {Mar}, note = {情動とは心的現象のひとつ,しかもわれわれの身体を巻き添えにした心的現象である。たとえば,欲望も情動のひとつであろう。リクールは,欲望は身体に根ざすものであって,これは意志作用の性格をもつ,と考える。しかも彼は,<情動は意志作用をして行動へと差し向ける>と言うのである。してみれば,われわれは情動の支配から免れえない,ということになるのではないだろうか。もしそうであるとすれば,われわれの自由意志による行動というものは存在しない,ということになるのであろうか。  リクールは,情動と意志作用について考察を行うとき,デカルトの情念論に立ち返って,われわれが情動から自由になるための方途をデカルトの<高邁の徳>に求め,自由意志による行動を行うことができるという点に,人間の人間性を認めている。この意味において,リクールは,デカルトからアランに至るデカルト主義の系譜に連なる哲学者である,と言えるであろう。しかし彼はなぜ,そのように考えるのであろうか。以下,リクールのテクストの読解を試みながら,このことを考えることにしたい。  ここで筆者が取り上げるテクストは,リクールの『意志的なものと非意志的なもの』第2部「行動すること――意志的運動と諸能力」,第2章「身体的自発性」,第2節「情動」である。以下,このテクストを敷衍しつつ,その内容を分析し,テクストをしてみずから語らせることによって,リクールの考えを明らかにしたいと思う。こうした方法を採るのは,『意志的なものと非意志的なもの』の監訳者滝浦静雄が述べているように,「彼の議論の細かさは,簡単には要約を許さないほどに入り組んだものであり,しかもその詳細さは大抵の場合,分析の両義性に結びついている」からである。}, pages = {1--11}, title = {リクールにおける情動と高邁の徳}, volume = {7-8}, year = {2009} }