@article{oai:iwate-u.repo.nii.ac.jp:00010490, author = {安井, 萠}, journal = {岩手大学文化論叢, The report of social studies, the Faculty of Education, Iwate University}, month = {Mar}, note = {昨年(2006年)10月に明るみとなった,高校でのいわゆる世界史未履修問題が,学校現場に混乱をもたらし,社会的にも大きな問題となったことは,なおも記憶に新しい。筆者が勤務する岩手大学教育学部でも,ある学年を対象に緊急調査を行ったところ,実に3割近くの学生が世界史を履修していないことが判明した。必修である世界史がかくも多くの高校で履修されずにいた理由は何なのか。おそらくそれは,受験に不要であるという外的な(そして最大の)要因に加え,科目それ自体の性質に起因している。そこに登場するおびただしい数の,しかもあまりなじみのない出来事,人名,地名等,諸用語や年号などが,生徒たちの頭脳に余計な負担を強いるというわけである。このことは,ここであらためて言い立てるまでもなく,前々から広く認識されてきたところである。  歴史は史実の積み重ねより構成されるものである以上,学習者にある程度の記憶力が求められるのは必然である。しかし憶える量が多すぎては学習者の意欲を失わせる。いかに意欲を持たせつつ憶えさせるか,教師たちが共通に直面する困難な課題である。他方でまた気をつけなければならないのは,歴史は単なる史実の積み重ねではない,ということである。無数に存在する諸事実のなかからあるものをピックアップし,何らか特定の観点のもとに配置し説明するという,「叙述」の作業がその本質をなしている。ナレーションのない,事実だけの歴史などありえない。しかもその場合,観点の持ち方は多様でありうるので,よって描かれる歴史像も唯一真正ではない。こうした諸事実を「つなげる」作業にこそ歴史の本質,また面白味はある。にもかかわらず,もし学習者がこれを単なる諸事実の羅列ととらえる傾向があるとするならば,それはまさしく教育の失敗といわねばならない。  さて,「詰め込み教育」の代表科目世界史を,ある意味で象徴するのが教科書である。300を優に越える頁のなかに,無数の用語や年号が間断なく流れる水の流れのように次々現れ出る。ところどころゴチックで表記され,「重要事項」たることを自己主張する。まるで年表のようである。これを一見して尻込みしないような生徒はそう居るまい。外国史研究を専門とする筆者自身,高校時代の世界史の印象は,教科書の内容のまず暗記であった。今現在の世界史教科書の記述も決して面白いものではない。なるほど「世界史への扉」の項の設定やコラムの多用などでかつてと比べ工夫がなされているものの,本文の説明は極度に圧縮され平板であり,用語が前面に出ている印象は拭えない。こうした問題は,もちろんひとり教科書執筆者だけの責任に帰されるべきものではない。むしろ大学入試制度を始めとする様々な社会的文化的そして政治的背景にあって形作られた,教科書記述のいわば「叙述の伝統」と呼ぶべきものに,ただ彼らは従ったにすぎないのである。  したがって,上述のような意味での歴史の本質,面白さを認識し,それを生徒に伝えようと努力するすぐれた教師たちは,一様に教科書に不満を覚え,そこから離れた形での(独自のプリントや読本などを用いた)授業を追求するのである。とはいえしかし,通常の授業で中心\ となるのはやはり教科書であるし,受験を考慮するとなおさらである。教科書は大学受験を念頭に作られ,逆に大学入試問題は高校教科書の内容を参考に作られる。両者は相互影響関係にあるのである。加えて,かつての従軍慰安婦問題,近時の沖縄集団自決問題に関する教科書記述をめぐる論議に見るように,歴史教科書の内容というのは国民的(国際的)関心事とさえなっている。好むと好まざるとにかかわらず,国家権力の吟味を経て著されるそれは,一つの「正史」をなしているわけである。こうした現状にあって,教育現場で歴史を語る主体ヒストリアンが教師であることは違いないにせよ,やはり教科書が公然隠然たる影響力を保持していることは疑いないようである。  ところで高校世界史教科書は,はたして年表のごときものなのであろうか。そう思わせる要素が充満していることは述べた通りである。だが実際そうとばかりいえない。教科書は確かに諸事実を取捨選択し,それらを意識的に「つなげて」語ろうとしている。そもそもただ事実の集積にのみ終始し,一切語らない歴史の書き方など不可能である。何らか一貫した史観に基づくかどうかはともかく,間違いなくそこでは叙述がなされているのである。小稿はまさにこのような認識のもと,世界史教科書を一個の歴史叙述ととらえ,読み直してみようとするものである。国民の多くが一度は手に取る,そして一つの「正史」にも位置づけられる歴史書の叙述のあり方はどのようなものなのか。この点をあらためて確認することは,単に興味深いというばかりでなく,教科書を用いて(たとえ批判的にであれ)歴史を語ろうとする教師にとって教材理解の必須の前提とさえいえるだろう。  考察の対象として,具体的には西洋古代史(ギリシア・ローマ史)に限定したいと思う。これは筆者の専門に引き寄せてのことである。世界史の本領はもちろんまずその全体的枠組みにあるといえようが,「世界史の叙述」についてトータルに論ずることはとても筆者の手に余るし,またそれは学習指導要領に明確に定められる部分でもある。あくまでここでは特定の地域・時代にしぼって,教科書執筆者に委ねられる範囲での叙述のあり方を見ていきたい。  中心的に使用するテキストは,最新版(平成19年度版)の各社の主な世界史B教科書である。列挙すると,三省堂『世界史B』(以下,三省堂),実教出版『世界史B』(実教),第一学習社『高等学校世界史B』(第一),帝国書院『高等世界史B』(帝国),東京書籍『世界史B』(東書),山川出版社『詳説世界史B』(山川)の6種である。この他,必要に応じて他種また平成19年度以前の教科書を適宜参照する。}, pages = {57--73}, title = {高校世界史教科書における西洋古代史 : その叙述のあり方}, volume = {7-8}, year = {2009} }