@article{oai:iwate-u.repo.nii.ac.jp:00010491, author = {遠藤, 匡俊}, journal = {岩手大学文化論叢, The report of social studies, the Faculty of Education, Iwate University}, month = {Mar}, note = {明治期以前のアイヌの生活を知るうえでは,文字で記された史料,絵図,地図など様々な種類の歴史的史料が有効である。アイヌの人々に遵守されていた「すでに死亡した人や近所に生きている人と同じ名前を付けない」という命名規則,あるいは集落,家族構成などの研究において,必要不可欠な史料として人別帳があげられる。人別帳には、一人ひとりの名前,年齢,続柄等が家という単位で記されているだけでなく,複数の家が含まれる集落,さらには複数の集落が含まれる場所の各単位で記されている。アイヌの人別帳は,1800年代中期のものは蝦夷地のなかでも多くの地域に関するものが多数残存しているが,1800年代初期のものになると残存するものはかなり限られており,1800(寛政12)年の択捉(エトロフ)場所,1803(享和3)年の厚岸(アッケシ)場所,1812(文化9)年の静内(シズナイ)場所,1822(文政5)年の高島(タカシマ)場所,1828(文政11)年の北蝦夷地東浦(南カラフト東海岸)などの少数の地域の史料が知られているにすぎない。  北海道江別市の北海道立図書館北方資料室には,1825(文政8)年の「フルウ場所土人人別改」という史料が所蔵・保管されている。この史料は,文政8年の西蝦夷地古宇(フルウ)場所におけるアイヌの人別帳の写本である。これは原稿用紙にペン書きで記された写本であり,「フルウ場所土人人別改」の原本は文政8年6月に作成されたものと判断されるが,その後かなりの時間が経過して明治期以降になってから筆写されたものと考えられる。原本の所在はまだ明らかではないものの,残存する1800年代初期のアイヌの人別帳は非常に数少なく,当時のアイヌの生活を知るうえで貴重な史料であると考えられる。  1800年代初期のアイヌの社会構造の特徴として,厚岸場所や択捉場所周辺地域の研究によって,多数の家来や妻妾を持つ有力者の存在が挙げられてきた(高倉,1940;川上,1986;菊池,1991;海保,1992;岩崎,1994)。一方,択捉場所,厚岸場所,静内場所,高島場所,北蝦夷地東浦の研究によって,1800年代初期のアイヌの社会構造の特徴として同居者の存在があげられ(遠藤,2004a),「すでに死亡した人や近所に生きている人と同じ名前を付けない」という命名規則が存在しその空間的適用範囲はかなり広い地域にまで及んでいたことが示されている(遠藤,2004a)。古宇場所の事例は,1800年代初期のアイヌの社会構造や命名規則の空間的適用範囲のなかで,どのように位置付けられるのであろうか。 本研究の目的は,「フルウ場所土人人別改」を用いて,1825(文政8)年の古宇場所におけるアイヌの家構成員の人口構成を復元し,「近所に生きている人と同じ名前を付けない」という命名規則の空間的適用範囲を明らかにすることである。そして文政8年の古宇場所のアイヌの家と命名規則の実態を,既に公表した1800年代初期の5地域(寛政12年の択捉場所,享和3年の厚岸場所,文化9年の静内場所,文政5年の高島場所,文政11年の北蝦夷地東浦)の実態(遠藤,2004a)と比較して考察することである。}, pages = {75--91}, title = {1825(文政8)年の西蝦夷地古宇(フルウ)場所におけるアイヌの家構成員の人口構成と命名規則の空間的適用範囲}, volume = {7-8}, year = {2009} }