@article{oai:iwate-u.repo.nii.ac.jp:00010604, author = {星野, 勝利}, journal = {岩手大学英語教育論集}, month = {Mar}, note = {漱石の『坊っちゃん』は青年教師の物語である。田舎の中学校に赴任した東京 育ちの一人の新任教師の体験を語るものである。生意気な生徒たちや社会の縮図のような教員の世界で繰り広げられる青年の行動は、一種のピカレスクである。 痛快無比な冒険譚である。しかしこの青年は、着任以来わずか一ヶ月でこの生活 にピリオドを打つ。校長に辞表を出し、東京に帰ってしまう。 新しい世界を短期間で後にする青年教師の行動は、物語としては痛快である。 しかし、世間一般的な視点で眺めれば、乱暴であり、無謀である。このような行 動をとる青年の心のありようは、常人には理解しがたい。しかし、この青年の心 の世界で、読者にも明確に感じ取れるものが、少なくとも一つはある。東京の実 家に住む下女、清(きよ)への思いである。 田舎に赴任した青年教師が、独り身の生活の中で絶えず思い浮かべるのは、肉 親ではない。この下女である。「おやじは些(ちつ)ともおれを可愛がって呉れな かった。母は兄許(ばか)り贔屓(ひいき)にして居た」という両親は、すでに この世にはいない。兄とも不仲である。このような環境の中で、青年の心が向か うのは、「後生だから清が死んだら、坊つちやんの御寺へ埋めてください。お墓の 中で坊つちやんの来るのを楽しみに待っております」 という、清である。目一杯 の愛情を、さながら実母のように、惜しみなく注いでくれる清である。 『坊っちゃん』の作者漱石が、幼児期に複雑な生い立ちをしたことは、よく知 られている。江戸牛込馬場下の名主の家に、五男の末子として生まれた漱石(夏 目金之助)は、望まれなくして生まれた子として、生後すぐ、四谷の古道具屋に 里子として出される。ところがその里子が、夜中にかごの中で品物と並んで並べられて寝ているのを見て、不憫に思った姉が、実家に連れ戻してしまう。連れ戻 された漱石は、翌年、再び別の家に養子に出される。しかし今度は、その養父(塩 原昌之助)の女性問題に絡む家庭内の不和により、9歳のとき、養子のまま、再 度生家に戻ることになる。以後、この生家で暮らすことになるが、実父と養父と の間のゴタゴタもあり、戸籍上夏目家に復籍したのは、21歳のときであった。 修善寺の大患を経た最晩年の随想(「硝子戸の中」) で、漱石は、揺藍期、幼児 期の自分の身辺にかかわる思い出を、淡々と記している。それによると、実家に 戻ってしばらくの問、漱石は、自分の両親を祖父母と思い込んでいたという。そ の祖父母が実の親であることを、ある日さりげなく教えてくれたのは、実家の下 女であった。何ともやりきれない思い出である。そのためであろうか、回想とし ての実の親への思いも複雑である。父に対しては、「過酷に取り扱はれたといふ記 憶」(29話)しか残っていないという。ただし、母に関しては、「すべて私に取って 夢」ではあるが、「宅中(うちじゅう)で一番自分を可愛がって呉れたものは母だ という強い親しみの心」(38話)があるという。作品『坊っちゃん』で際立つの は、肉親、とりわけ父の存在感の希薄さである。そして、これとは対照的な、清 の存在感の大きさである。晩年の回想は、作品『坊っちゃん』の世界が、作者漱石の生い立ちの環境と無関係でないことを示唆している。 メルヴィルの作品『白鯨』(Moby-Dick,1851)は、「わたしをイシュメイルと呼 んでほしい」(1章)という、よく知られたことばで始まる。イシュメイル(Ishmael) とは、旧約聖書「創世記」に出てくる青年の名称である。ただし、ただの青年で はない。ノアの洪水の後、人類救済のために神によって選ばれた予言者、アブラ ハムの息子である。子宝に恵まれなかったアブラハムの妻サラが所有していたエ ジプト人女奴隷ハガルと、アブラハムの間に生まれた子、いわゆる庶子である。 ところが、後に正妻サラに奇跡的に男児が生まれたため、イシュメイルは、母と ともに、砂模に追放される。追放されたイシュメイルは、「野ろばのような人と なり、その手はすべての人に逆らい、すべての人の手は彼に逆らい、彼はすべて の兄弟に敵して住む」 (16章)ことになる。すなわち、放浪と反抗の孤児イシュ メイルとなる。 『白鯨』は、イシュメイルを名乗る人物が語る物語である。捕鯨船の船長と白 い鯨の物語であり、ピカレスク的な捕鯨譚である。しかし、仮名の語り手の登場 がすでに示唆するように、船長と鯨の物語は、単なる捕鯨譚ではない。象徴性を 豊かにはらんだ捕鯨譚である。語り手イシュメイルの存在も例外ではない。捕鯨 船での体験のいっさいを語るこの青年は、その途上、自分の生い立ちに関わるよ うなことばを口にする。このことばには、海に出たこの青年の心の風景が浮かび出る。私生児として、孤児として、青年イシュメイルは、不在の父、そして亡き母の姿を求める。 Where is the foundling's father hidden? Our souls are like those orphans whose unwedded mother die in bearing them: the secret of our paternity lies in their grave,and we must there to lean it (Ch. 114) このような作品の作者メルヴィルの心の世界は、どのようなものであったのだろうか。漱石の『坊っちゃん』と同じように、揺藍期、幼児期の個人的生い立ち と、関係があるものなのだろうか。作家としての精神構造と、どのように関わる ものなのか。}, pages = {38--54}, title = {コレラの夏 : メルヴィルの原風景}, volume = {14}, year = {2012} }