@article{oai:iwate-u.repo.nii.ac.jp:00010636, author = {境野, 直樹}, journal = {岩手大学英語教育論集}, month = {Mar}, note = {Larry&Andy Wachowskiによる映画『マトリックス』三部作(1999,2003)は、人間が現実世界として認識している世界がじつは幻想にすぎず、比喩的な空間にすぎないという設定をもつ作品だった。人間を栽培するための幻想のシステムとしてそれ自体では無目的な「日常」(マトリックス)から「覚醒」した人間には「役割」が求められ、「役割」を存在理由とするプログラムとの関係性のなかで転義と喩義は相互乗り入れをはじめ(人間的なプログラム-プログラムのような人間)、物語内での「闘争」は、カンフーアクションという娯楽性の高い単純化・比喩化によって、あたかもゲームソフトのように映像化される。生殖によるのではなく、機械によって栽培される人間という近未来の悪夢-そこでは「愛」はなんの意味も目的ももたない理解不能なもの、不条理として扱われ、おそらくはそれゆえにこそ、機械が支配する悪夢のごとき世界の均衡を破壊する契機として描かれる。システムの保全に貢献しないプログラムは、エージェントと呼ばれる巡回プログラムによって削除されるが、システムのanomalyと位置づけられる主人公との対立=対称を通して、あるひとつのエージェントもシステムに依存しないanomalyとしてのアイデンティティを獲得し、システム全体の征服-破壊を企てるようになる。システムには「設計者」(architect)と呼ばれる男性表象のプログラムと「予言者」(oracle)と呼ばれる女性表象のプログラムの対立の構図が存在し、「設計者」の意図の範境にないanomalyとしての主人公は、劣勢に立たされた人類の「救世主」として覚醒し、その負の対称として変異したかつてのエージェントプログラム・スミスは、望まれずに生まれてきた者、私生児(bastard)と罵倒されることになる。1 三部作を通じて、機械対人間の闘争はネオとスミスの闘争へと移行し、二つの世界の運命は、救世主による私生児の排除か、あるいは私生児による完全なる支配-おそらくは破壊-の間に宙吊りとなり、このふたりのanomalyの対決によって決められることになる。}, pages = {89--100}, title = {私生児の覚醒 : 『復讐者の悲劇』と虚構化される近代}, volume = {10}, year = {2008} }