@article{oai:iwate-u.repo.nii.ac.jp:00010862, author = {宇佐美, 公生}, journal = {岩手大学教育学部附属教育実践総合センター研究紀要, The journal of Clinical Research Center for Child Development and Educational Practices}, month = {Mar}, note = {あることを心から「よい」と思い、それを実現するのに適切で実行可能な手段もわかっているのに、その手段を実行しないということはあるだろうか。「よい」と思っていたものが、そう思えなくなったとか、もっと魅力的な「よい」ものが見つかったとか、手段の適切さを見誤っていたとかの逸脱があれば、それもあるかもしれない。しかしそのような逸脱がなければ、手段を実行しようと「意図」するのが「合理的(理性的)」だとする考え方(A)がある。この考えには、たとえそのような逸脱がなくても、手段を実行する気にならないことがある、とする考え方(B)が対立している。また仮に実現される目的を欲していなくても、行為そのものが「正しい」ということだけで、やろうとすることはありうるとする考え方(C)もある。本稿では(A)と(C)の考えがどうして可能だと言えるのか、その理屈を考えてみたい。}, pages = {11--25}, title = {理性に動機づけの力はあるか : 道具的実践理性と純粋実践理性}, volume = {13}, year = {2014} }