@article{oai:iwate-u.repo.nii.ac.jp:00011197, author = {武田, 晃二}, journal = {教育工学研究}, month = {Mar}, note = {庵地保(いおじたもつ、1853-1930)については「普通教育論を説いた初期の文献」といわれる『民間教育論』の著者として、主として中内敏夫氏らによって1960年代半ばから断片的に紹介されてきた。庵地が『民間教育論』を出版したのは、教育令が改正される1週間前の1880(明治13)年12月23日であった。1873(明治5)年の学制実施により、各府県は「貧富尊卑ノ別ナク」という文部省の方針(西潟「説論」等)に促されて、「貧民ノ子女」の就学という「難事中ノ難事」に当面していた。府県の多くは、根気よく説得さえすれば数年後には実現できるという展望を文部省に報告していた。ところが、政府・文部省は財政政策の転換を契機に、普通教育を「富人ノ子弟」に限定し、貧民にたいする教育を切り捨てる方向に転じ、学制を廃止して、教育令を制定した。これに対して、自由民権派や民衆側からは普通教育は人民に権利であり、子どもの権利であるという主張が表明されたり、普通教育にたいする政府・文部省の権限の問題をも含め、普通教育のあり方をめぐり、活発な論議が展開された。他方、国家権力内部の保守反動層は元田永孚を天皇の侍講に据え、教育令に表れたいわばブルジョワ路線を否定し、すべての学齢児童に徳育主義の教育を義務づけるという国家主義的路線を画策していた。「普通教育ノ挽回」と意識されたこの路線は教育令制定後に一挙に表面化し、わずか1年3カ月後に、クーデター的に教育令を「改正」した。この路線は、事実上、「普通教育」という概念を用いること自体を否定する路線でもあった。庵地の『民間教育論』は,まさにこの激変期にあって,「開国進取」のブルジョワ的側面を肯定し,合理主義を基調とした「普通教育」論を体系的に展開したものである。庵地は彼の普通教育論を自らの行動原理として精力的に活躍するが、日清戦争に当面し、「開国進取」の絶対主義的軍国主義的側面の台頭のなかで、その主張は押しつぶされていくことになる。本稿は普通教育論研究の一環としての庵地保研究の基礎資料となるものである。}, pages = {119--145}, title = {庵地保の生涯と年譜}, volume = {12}, year = {1990} }