@article{oai:iwate-u.repo.nii.ac.jp:00012762, author = {小池, 稔}, journal = {思想と文化}, month = {Feb}, note = {トゥーゲントハットは,最近の一連の著作において,<意識哲学>,とりわけ<現象学>との対決を通して,彼独自の新しい<言語分析的哲学>を構築しようと野心的な試みを展開している1)。 トゥーゲントハットが自らの<哲学>を展開するに当って何よりもまず現象学を引き合いに出し,現象学に対する対決の姿勢を強く打ち出すのは,フッサールが伝統的な対象論的立場に立ちながらも,意味論のもつ問題性を深く認識しており,表現の意味,特に命題の意味についての問題を伝統的概念によって解決しようと努めた伝統的立場の代表者と見倣されるからである2)。 トゥーゲントハットは,彼自身によって「哲学の根本的問い」として提起されるr命題を理解するということはどのようなことなのか」という問いを述語的命題形式の構造契機に即して,次の四つの問いに分節化している3)。 (1)単一名群はどのように理解されるか, (2)述語はどのように理解されるか,(3)単一名辞と述語の複合はどのように理解されるか, (4)言表命題はどのように理解されるか。 トゥーゲントハットによれば,フッサールの意味論は(2)の問いにおいて挫折するという。 それゆえ,本稿では主として(2)の問いに関しての, トゥ-ゲントハットのフッサール意味論批判を検討し, トゥ-ゲントハットの所論,特に「原初的意識単位は命題の理解である」4) という彼の基本的テーゼに関して若干の考 察を加えたいと思う。}, pages = {21--35}, title = {意味と対象-フッサール意味論に対するトゥーゲントハットの批判をめぐって-}, year = {1986} }