@article{oai:iwate-u.repo.nii.ac.jp:00012763, author = {箱石, 匡行}, journal = {思想と文化}, month = {Feb}, note = {他者の暴力に曝された私は根源的な他者性に直面する。その時,私は存在の他者を垣間見る。暴力によって私の存在そのものが崩壊の危機に曝される。なぜなら私が私でありうるために本質的な<世界への基本的信頼>が解体し始めているからである。 ナチズムの拷問に曝されたジャン・アメリーはその経験をこう語っている,「最初の一撃ですでに何かを失うのだ。何かとは何であるか。さしあたり世界への信頼とよぶとしよう。まさにそれを失う。世界への信頼である。」1)世界への信頼の解体は自己存在の崩壊を意味する。そして彼は言う,「拷問された者は二度とふたたびこの世にはなじめない。屈辱の消えることはない。最初の一撃ですでに傷つき,拷問されるなかで崩れ去った世界への信頼というものを,もう二度と取りもどせない。」2) 戦争とはあらゆる種類の暴力の相場である。そこに拷問があっても不思議はない。クラウゼヴィツは,「およそ戦争は拡大された決闘にほかならない」3)と言う。決闘の目的は,「物理的な力を行使して我が方の意志を相手に強要し ようとする」4)こと,つまり「相手を完全に打倒しておよそ爾後の抵抗をまったく不可能ならしめる」5)ところにある。したがって,「戦争は常に二個の生ける力の衝突である。」6)そして報復によって暴力の循環が始まる。 我々は問わなければならない,-私と他者の関係は根本的に暴力的なものではないのか。人は<暴力的人間>として定義されるのではないのか。そして暴力をもたらすものは何なのか。我々は何によって暴力の循環を越えうるのか。}, pages = {37--49}, title = {暴力と愛の形而上学序説}, year = {1986} }