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作家と文体-PoeをAndersonと較べる-
https://iwate-u.repo.nii.ac.jp/records/12780
https://iwate-u.repo.nii.ac.jp/records/127805d1e8b98-a0ab-4003-b7ad-309de049caf1
名前 / ファイル | ライセンス | アクション |
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![]() |
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Item type | 紀要論文 / Departmental Bulletin Paper(1) | |||||||
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公開日 | 2010-03-16 | |||||||
タイトル | ||||||||
タイトル | 作家と文体-PoeをAndersonと較べる- | |||||||
著者 |
藤本, 正文
× 藤本, 正文
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著者別名 | ||||||||
姓名 | FUJIMOTO, Masabumi | |||||||
著者(機関) | ||||||||
岩手大学人文社会科学部 | ||||||||
Abstract | ||||||||
内容記述タイプ | Other | |||||||
内容記述 | 文は人であるか。文は人ではない。おそらくPoeは,そう思っていただろうと思う。 Poeは,「本の書き方は支那人がヒントになる」と述べた。"Marginalia"(その1849年)のなかの断章である.支那語は右端から書きはじめて左に移る。頁の綴じ方も逆である。そのように英語を,おしまいから書くのがよい,というのだ1)。「あらかじめ読者の心に残しうる印象を思い定めてから書く」2),という彼の有名な小説理論の,これは彼一流のヴァリエーションにあたる。人は普段,さかさまにものを考えはしない。さかさまに考えることで,思考の方法のみならず,内容が逆転しないという保証はどこにもない。しかしなぜ普段どうりでいけないかと言えば,それは文が,読む人のためのものであるからだ。書く人のものではない。Poeはいつも,そのことを考えていたのであろう。 そのようなPoeのために,私はここに,ひとつの小観察を報告しよう。(断じてPoeのために。たとえば,私の文が愚かであって私が愚かである,これとは全く関係のない話である。)この観察を,地下のPoeが喜ぶかどうかは分からない。しかし少なくとも,さほど不興を買う事柄ではなかろう信ずる。なおこれは弁解のために加えなければならないが,Poeについて書こうとすると,何によらず,言葉に慎みがなくなる。Poeの評論の激越無双と言ってよい語り口を思い出し,あの荒技を見習いたくなってしまうのである。 |
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出版者 | ||||||||
出版者 | 岩手大学人文社会科学部 | |||||||
登録日 | ||||||||
日付 | 2010-03-16 | |||||||
言語 | ||||||||
言語 | jpn | |||||||
資源タイプ | ||||||||
資源タイプ識別子 | http://purl.org/coar/resource_type/c_6501 | |||||||
資源タイプ | departmental bulletin paper | |||||||
著者版フラグ | ||||||||
出版タイプ | VoR | |||||||
出版タイプResource | http://purl.org/coar/version/c_970fb48d4fbd8a85 | |||||||
書誌情報 |
思想と文化 p. 301-308, 発行日 1986-02-05 |