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脱構築としてのイマージュそして/あるいは〈無垢の瞬間〉 M.トゥルニエにおける「変身」のロビンソン・クルーソー
https://iwate-u.repo.nii.ac.jp/records/12848
https://iwate-u.repo.nii.ac.jp/records/1284840daa33d-6dc1-4db0-bf54-d73e43c0af32
名前 / ファイル | ライセンス | アクション |
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Item type | 紀要論文 / Departmental Bulletin Paper(1) | |||||||
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公開日 | 2010-03-24 | |||||||
タイトル | ||||||||
タイトル | 脱構築としてのイマージュそして/あるいは〈無垢の瞬間〉 M.トゥルニエにおける「変身」のロビンソン・クルーソー | |||||||
著者 |
菊地, 良夫
× 菊地, 良夫
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著者別名 | ||||||||
姓名 | KIKUCHI, Yoshio | |||||||
著者(機関) | ||||||||
岩手大学人文社会科学部 | ||||||||
Abstract | ||||||||
内容記述タイプ | Other | |||||||
内容記述 | 人間は注意深く自分のまわりの世界(外的世界)を観察して、その世界の中に隠されているものを発見する。その結果、新たな認識が生まれる。科学的認識のこうした方法論への反論がある。それはとくに、神秘家や詩人たちに見られる伝統的な認識方法の一つなのだが、人間が認識したと思っていたものは、自己の外にあったものではなくて、実は自分の内部(内的世界)にあったものを再発見したにすぎないのだと1)。この主張を極端化すれば、あらゆる現象の認識のためには、認識対象の要素がすでに自己の内部に宿っていなければならないことになる。だが、人間の認識には限界があることを前提にしなければならないだろう。「外的事実に対応していないものを、人間には想像できない」2) のだから。ところが「人間に想像できるものは、みな実現が可能である」(同上、p.8)ともいえる。実際には、自己の内部にアンテナを張り巡らし、そのアンテナが反応できないものは認識対象から外してしまうという限界を示すと同時に、反対に、感度のよいアンテナなら、より豊かな外部の認識ができることにもなる。このアンテナを読解力とか観察力とか洞察力とか、何でもよいが、人間にとって認識能力に必要なものと考えると、自己の外に向かうよりも、自己の内部にあるのはどのようなアンテナ(想像力)なのかをより深く追求する方向が生まれてくるのではないだろうか。 | |||||||
出版者 | ||||||||
出版者 | 岩手大学人文社会科学部 | |||||||
登録日 | ||||||||
日付 | 2010-03-24 | |||||||
言語 | ||||||||
言語 | jpn | |||||||
資源タイプ | ||||||||
資源タイプ識別子 | http://purl.org/coar/resource_type/c_6501 | |||||||
資源タイプ | departmental bulletin paper | |||||||
著者版フラグ | ||||||||
出版タイプ | VoR | |||||||
出版タイプResource | http://purl.org/coar/version/c_970fb48d4fbd8a85 | |||||||
書誌情報 |
言語と文化の諸相 p. 293-319, 発行日 1999-03-10 |