@techreport{oai:iwate-u.repo.nii.ac.jp:00012992, author = {長野, 俊一}, month = {Jan}, note = {1994年度教育研究学内特別経費報告書, 1865年に雑誌《世紀》に発表されたドストエーフスキイの中編小説『鰐』は、作者の「意図」に反して、当時政治犯として流刑地シベリアにあったチェルヌィシェーフスキイの不幸な運命およびその私生活に対するアレゴリーないしはカリカチュアであると「曲解」され、ただちに《ゴーロス》(声)や《イースクラ》(火花)などの自由主義的、急進主義的ジャーナリズムの不評を買うことになる。作家は七年余り後の1873年、『作家の日記』の「個人的なこと」(《グラジグニーン》(市民)、1873年第3号)の中で、長い沈黙を破って自作の弁明に努めることになるが、すでに、『スチェパンチコヴォ村とその住人』でゴーゴリとその『友人との往復書簡抄』をパロディー化し、近くは、『悪霊』においてグラノーフスキイやトゥルゲーネフを戯画化した前科を持つドストエーフスキイにしてみれば、『鰐』に政治的アレゴリーや個人的誹謗中傷文を嗅ぎ出した同時代の批評界の素朴な反響それ自体が、いわば身から出た錆であったと言えなくもない。「...この卑劣な行為は私の仕業だとされていて、そのま まある人びとの記憶には、疑いのない事実として残っているし、文壇に広まってゆき、読者大衆の中にも浸透していって、すでに一度ならず私に不愉快な思いをさせたのだ。今はこのことについてたとえ一言でも語っておくべき時だ。まして、それは根も葉もないことなのに、現在 でも通用しているからには」1)と言ってみたものの、『鰐』-アレゴリー説は、以後もさまざまな変奏を加えながら、今日までのこの小説の読まれ方を決定的に方向づけたのである。作家の妻アンナ・ドストエーフスカヤは日記にこう書き記している。「その後、私たちは鰐に関 するフェージャ〔ドストエーフスキイのこと-長野〕の中編小説を読み始めました。サーシャはそれについて、これはチェルヌィシェ-フスキイに向けて書かれたもので、ここに描かれている婦人はチェルヌイシェーブスキイの妻であると言いました」2)}, title = {テクストの多層構造-芸術テクストとしての『鰐』の分析-}, year = {1994} }