@article{oai:iwate-u.repo.nii.ac.jp:00013050, author = {現代行動科学会誌編集委員会 and 横井, 修一}, journal = {現代行動科学会誌}, month = {Aug}, note = {「学問にはどんな意義があるのか」という疑問や悩みをもつことは、近年少なくなったと言われるが、恐らく現在も大学では、漠然とであれ新入生から教師まで一度は持たれる問いであろう。それは大学卒業後の人であれば、学問・研究に関わらない立場で学問と関わる意味は何かという問題であり、本紙の読者には職業上の専門知識との関係なしに<行動科学>という学問に関わる意味は何かという問題で、より広げて言えば<行動科学>(注1)という学問は私たちの生活でどのような意義をもつかという問題である。  この『現代行動科学会誌』の読者である現代行動科学会会員の大半が<行動科学>を学んだ卒業生であるが、職業として学問(教育・研究)に関わる人は一部であるし、臨床心理学関連の専門職のように<行動科学>が職業的な専門知識として必要とされている人々も多数派ではない。大多数の会員にとっては職業上の「専門知識」と直結しないとすれば、その<行動科学>の学問的な知識はどのような意味を持つのであろうか。  本稿では以上の問題について、<行動科学>をひとまず「社会学」に置き換え、私たちの日常生活において社会学がどのような意味をもつかという問題として、M.ブラウォイの「公共社会学」論を踏まえながら考えてみたい。  ブラウォイ(Michael Burawoy)は公共社会学論に関する論文を2004年以前にもいくつか著しているが、中心となるのはアメリカ社会学会における会長講演(2004年)をそのまま活字化した次の論文である。講演の全文はきわめて明晰なもので、その後に書かれた論文で取り上げられている論点が、本稿に関連する限りではすべて展開されている。  Michael Burawoy, 2004, For Public Sociology PRESIDENTIAL ADRESS, American Sociological Review, 2005, Vol.70(February:4-28)  本稿におけるブラウォイの紹介は主としてこの論文に基づいており、その引用や参照箇所は単に該当頁だけを付記する。引用文中の「・・・・」は省略を、「[]」は原文にない補いを示す。なお、本稿の「注」は研究論文の作法としての論拠の提示や補足であり、本稿の内容自体は本文だけでも理解されるのではないかと思う。  本稿の1~4節はブラウォイの公共社会学論の―本稿の主張の基礎となる部分の―紹介で、5~6節がブラウォイの議論を踏まえた筆者の主張である(注2)。}, pages = {1--11}, title = {「公衆」として学問に関わる意味―ブラウォイの「公共社会学」論からの示唆―}, volume = {28}, year = {2012} }